便利とは何か
便利とはなにかを勘違いする現象が特に多いのが現代かなと。何度もこういう話を方々でするが、話しても分から無いから半ば諦めている。
それで、便利とは同一性である。赤いリンゴと青いリンゴ、和ナシと洋梨があり、4つの物をナシとリンゴと2つに整理できる。さらに同一性という機能を使えば全ての上位概念として果物とできる。4つが1つに整理される。
いかなる物もそうしてまとめるのが人の便利の基本的な機能だ。一旦最上位に概念を付与すれば、全て俯瞰できる。
これが便利という事で、現実には神こそがもっとも便利な概念と言うのはいうまでも無い。
ところが企業や最近の世間様とはこの時点で話が合わないから困ったものである。
オタクとヤンキー
ある外資系の企業方にこういわれた。「君の話は仮説に過ぎない。」確かにおいらは物事を考える時に仮説を立てる。べつに強い根拠や事実が存在するわけではない。いろいろ調べていくうちにおかしいと思えば仮説を変える。
それはビジネスや科学に置いて核心だと思うのだが、多くの企業はもっと確実なデータをよこせといい、それがないなら何も言えないのである。
しかし以前から不思議なのだが、仮説なくしてどう物事を考えているのだろうか。まだ先の結果を見るためには仮説あるいは論理が必要であり、前提的な背景であるはずだ。
仮説を検証すらしないで物事を進める事を良しとするからビジネスマンは心底嫌いである。人間の頭は偏見に満ち溢れているから気をつけろと科学では理論負荷性、世間では虚心坦懐。
もちろん仮説と偏見は違うし、偏見は思い込みの仮説で否定されると本人が怒りだす。ヤンキーとオタクの思想的な違いはこの似て非なる思考プロセスにある。
ともあれヤンキー思想と関わるとろくな事がないが、ビジネスの世界では99%がヤンキー的な思想が背景にあるという仮説を立ててみる。異論は認めないし、議論の余地もない。
天才とはなにか
非典型的な知性や天才をどう生み出すか、もしくは探し出すかという議題が国内の企業や機関でおこなわれているが、本当に必要だろうか?天才や非典型的な知性を持つ人間とはどういうものか、定義は簡単だ。
理解できない人である。理解できないというのは、典型的な知性と一般的教養が理解できないと判断するのだから、本人は大真面目だ。
以前、知的障害者の就労支援施設を見学したのだが、まさに非典型的な知性だった。いきなり大声を出して笑い始めたり、独特な言葉を話していた。もちろん理解はできない。
理解できない人を知る事例は沢山あるだろう、凶悪犯やテロ行為などもその類として記憶する。それらは全て非典型的な知性ではないか。
アインシュタインの理論は今では当たり前で、ただ人間が疑った事実が明らかになっただけではないか。昔から変わらないではないか。そして原爆は生まれた。
iPhoneが出たときにみんな思ったはずである、凄いと。みんなが思うことを、共有できる知性を理解していたということではないか。iPhoneが出てきて初めてiPhoneがほしいという意識が生まれたのだ。
こう考えると一般的に天才と呼ばれる人は普遍性の塊ではないか。非典型的な知性など理解されず淘汰されるに決まっている。
本当に必要なのは、そういう非典型的な知性を保護することであり、産むや育てるなど非人道的である。天才など存在しない、存在するのはそう思って安心したい愚かな知性だけだ。
シンボル化
現代においての普遍性を考えるのなら、自分探しである。封建的や保守派は受けが悪く、分かりやすい自分を表現できるものが流行する。
たとえそれが本質でなくてもいい。夢や希望を語れるシンボルならなんでもいい。ブランド品や高級車だけでなく、エコや読書やスマホやそういった行為すらシンボルになる滑稽な世の中だ。
私はこういう人間だ、と伝える手段が潜在的需要で存在し、蔓延してる。そしてそれはマクロ的にデータ化され、同じ種族として仕分けされただの数字に変わる。
自分らしさとは何か、そういうチープな欲がどういう社会を作るかではない。社会の側で対応した結果であり、表現のパターンがすくなくなることは、情報化においてはこれほど都合のいいことはない。
情報化社会
自分が変わるということを認めないのが現代である。細胞は毎日生まれ変わるし、意識も変わる。名前を固定し始めたのは明治以降、最近の話である。
この人は変わるという事実を認めない文明を、情報化社会という。情報は変わらないからだ。今日撮った写真は明日も明後日も今日の私がそこにあるし、名前が変わって仕舞えば銀行から金を引き出すことすらできなくなる。
暗黙に私という変わらない存在をつくるから、自分探しやら自分らしさというバカなことが流行る。ITビジネスの到来はそうした主義思想の変化がもたらした結果である。
ところが世間はITがやってきたから情報化社会になったと思っているみたいで。そうではない、逆である。Googleが生まれてから調べるという行為が流行したのだ。調べる欲は存在していなかった。知る欲しかなかった筈である。
原因と結果が逆転しているのだが、それでも人は主義思想で生きる。ITを生み出したのは主義思想であり、それが暗黙か、明示かその違いがあるだけである。
そして、これすらも理解していただけないのが一般的だという事は承知している。
権威と民主主義と普通
おいら含めてすべての人は"ただの人"である。ところがそれでは落ち着かないという現象がたくさんある。会社を経営したり、母親になったり、タクシーを運転したり、戦争に赴いたり、皇室に入ったり。
本来はただの人である人はそういった立場になるという事は考えていないし、ただの人でいたくないという人間は少なくはないが、これは誠に危険な事である。
そういった意味では民主主義とは誰が偉くなるかわからないという前提があり、偉くなるつまり、思い通りになる部分を増やしたいという欲が一般的で、それは時に人のためという大義名分を持つが、ひっくり返せばとんでもない悪になり得ることは上記の通り。
ただの人でいることがどれだけ難しく、幸せなことかをどれだけ意識しているだろうか。
仕事をしていると世界を見ろ、大きなことをしろ、楽しいことをしろ、素晴らしいことをしろと方々で聞こえる。
それらは一体人間のどの幸せをになっているのかと聞きたくなるし、そう仰るそちらはただの人の何がいけないのかと思うのである。なんの欲なのか。
ただの人であるということをどれだけ意識するかは、自分と社会の付き合いの中で重要なことだとつくづく思う。
機械となるか、人間は。
鶏をみればわかる。養鶏場で目の前を餌と水が流れて、本人(本鶏)は全く動く余地がない金網カゴの中に閉じ込められている。後ろには卵受けがありズラリと卵が並ぶ。
これでは完全に機械である。もちろん鶏は機械ではないが、扱いは同じ。まともな扱いではない。それに気がつかないのは消費者が現場を見ないからであろう。
現場を見ている人は、ビジネスだから競争上仕方ないとか、経済効果だとか思っているに違いない。経済効果を優先したときの鶏の姿がああだということは、同じく経済効果を優先した社会の人間の姿もああだということである。
なぜ気がつかないのか、不思議だ。これは感情論ではないし、人間の場合どういう状態がそれだというのかについてはいうまでもないが、少なくともそうではない人間らしい人間と考えたいところではある。