世間に疲れる理由
世間で生きていると疲れる。昔からそうだ。学生時代も必ずどの学年でも不登校になっていたし、社会人としても似たようなものである。半年くらいは頑張れるが、それ以上は生きていけない。
人間はいつも自分が主体だと思って生きている。ゴルフばかりして、役にも立たない会社の社長が以前、犬の虐待動画に腹を立てていた。自分は犬を愛しているという。
そういった人は多いし、こういいたくなる。おたくはゴルフ場が出来る前にそこにいた小動物や草木をどう考えてるのか、都内なんて全部埋め立ててモグラなんかを殺しただけでなく、その上をあなたは平気で歩いているではないか。
主客転倒、おいらが正しいのではない、主体だと考え疑わないそちらはどうかと聞いているのだ。部屋から出ない理由はこういう人間を意識したくないのです。
理想主義と現実主義
答えというものには2種類ある。1+1=2であるという理屈は大方理解できるはずである。しかしながら現実はそうでない。アルコール1に対して水1を足すと2にはならない。分子の大きさが違うためである。
二つの違うものをそもそも同じものとして考えるのは、屁理屈だと言われるが、そっくりそのままお返ししたいことがある。社員数や資本金や売り上げは同じ1だろうか、一般的な解釈で言えば、人数を数える時は人間という単位で1としていないだろうか。違うはずである。1人として同じ物質など存在しない。しかし、平気で同じにしてしまうのはそちらではないか。
ところで、こんな話がある。旦那を亡くした妻が、占いにハマり言霊や霊魂を信じて金を支払ったという。前を向いてそんなことはやめなさいという現実の答えと、その方が精神衛生では幸せだから止めないという答えがある。
どちらが答えかは主観的と客観的にわかれるものであり、つまりは現実と理想の2つの答えがあるはずである。この場合、おいらを理想主義と仰る大人に言いたいのは、おいらが選ぶこたえは現実であり、そちらが選ぶ答えは後者であろうということ。
そして人間性や感情論ばかりで本質が見事に消え失せるあなた達は悪である。
論理と人間と意味性
論理を追及するということは、つまり論理的でない事柄を実生活ですら排除することである。
すべての機微においても、例えば金銭の使い方や得方においては一切の論理性はなく、一貫性がある様に見せているだけである。そういった虚偽の論理を信じるためには、理念や理想や夢や世俗などを持たねばならない。
それこそ論理的でなく、そういったことを全く排除することが前提なので、人間性をこの論理的でない部分にあるとされている現代において、本来の論理はそれをもたないし、したがって理解されることもない。
本来人間は無意味なことをして生きてきたが、そこに一貫性があるように見せているだけであり、無意味なことに論理が発現する。
サイコロは何故あるか
サイコロがいまだに使われているのは、脳にランダムという機能がないから。ランダムとは自然現象で、しかたなくどうしようもないことである。
科学は意識でつくられた学問であり、学問とはそういうものだ。統計的にサイコロの目がでる確率はわかるけれど、次に何がでるか保証はしてくれない。
ところで人工知能が必要だという人間は、このランダム性を保証する機能を作りたいにすぎない。もはや机上の空論を現実にしてしまう時代が今。
メンタリスト
メンタリストは相手のメンタルをコントロールする行動力学や心理学と勘違いしている人がよく彼を説明したがるけれど、そうじゃない。
軽い手品でメンタリストがどういうものかを説明して証明して、そのあとは相手がメンタリストとして意識したら勝ち。彼が優れているのは自分のメンタルをコントロールする事。
メンタリストは自分の側であり、他者にあるのは勝手なイメージ。メンタリストというキャラである。ヤンキーと一緒。しかしながら苦労して自分と会話した人だと尊敬する。面白い。