天才とはなにか
非典型的な知性や天才をどう生み出すか、もしくは探し出すかという議題が国内の企業や機関でおこなわれているが、本当に必要だろうか?天才や非典型的な知性を持つ人間とはどういうものか、定義は簡単だ。
理解できない人である。理解できないというのは、典型的な知性と一般的教養が理解できないと判断するのだから、本人は大真面目だ。
以前、知的障害者の就労支援施設を見学したのだが、まさに非典型的な知性だった。いきなり大声を出して笑い始めたり、独特な言葉を話していた。もちろん理解はできない。
理解できない人を知る事例は沢山あるだろう、凶悪犯やテロ行為などもその類として記憶する。それらは全て非典型的な知性ではないか。
アインシュタインの理論は今では当たり前で、ただ人間が疑った事実が明らかになっただけではないか。昔から変わらないではないか。そして原爆は生まれた。
iPhoneが出たときにみんな思ったはずである、凄いと。みんなが思うことを、共有できる知性を理解していたということではないか。iPhoneが出てきて初めてiPhoneがほしいという意識が生まれたのだ。
こう考えると一般的に天才と呼ばれる人は普遍性の塊ではないか。非典型的な知性など理解されず淘汰されるに決まっている。
本当に必要なのは、そういう非典型的な知性を保護することであり、産むや育てるなど非人道的である。天才など存在しない、存在するのはそう思って安心したい愚かな知性だけだ。